体罰について

体罰問題

『人間を動かす二つのてこは、 恐怖と利益である』
というナポレオンの言葉があります。このうち「恐怖」にアプローチするのが体罰です。
カメルーンに派遣されている同期隊員が体罰に関してブログを書いていたので、私も考えてみました。
体罰について

体罰とは

体罰とは「反省や改悛を促す手段として、殴る蹴るなどして身体的苦痛を加えること。身体的打撃による罰。」です。(実用日本語表現辞典より)

日本の学校教育法によると

第十一条 校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、児童、生徒及び学生に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。
と定められ、文部科学省は以下のように体罰を定義しています。
体罰の定義
教員等が児童生徒に対して行った懲戒の行為が体罰に当たるかどうかは、当該児童生徒の年齢、健康、心身の発達状況、当該行為が行われた場所的及び時間的環境、懲戒の態様等の諸条件を総合的に考え、個々の事案ごとに判断する必要があり、その懲戒の内容が身体的性質の もの、すなわち、身体に対する侵害を内容とする懲戒(殴る、蹴る等)、被罰者に肉体的苦痛を与えるような懲戒(正座・直立等特定の姿勢を長時間にわたって保持させる等)に当たると判断された場合は、体罰に該当する。
それに合わせて体罰に関する参考事例も示しています。
体罰の参考事例
○身体に対する侵害を内容とするもの

  • 体育の授業中、危険な行為をした児童の背中を足で踏みつける。
  • 帰りの会で足をぶらぶらさせて座り、前の席の児童に足を当てた児童を、突き飛ばして転倒させる。
  • 授業態度について指導したが反抗的な言動をした複数の生徒らの頬を平手打ちする。
  • 立ち歩きの多い生徒を叱ったが聞かず、席につかないため、頬をつねって席につかせる。
  • 生徒指導に応じず、下校しようとしている生徒の腕を引いたところ、生徒が腕を振り払ったため、当該生徒の頭を平手で叩(たた)く。
  • 給食の時間、ふざけていた生徒に対し、口頭で注意したが聞かなかったため、持っていたボールペンを投げつけ、生徒に当てる。
  • 部活動顧問の指示に従わず、ユニフォームの片づけが不十分であったため、当該生徒の頬を殴打する。

○被罰者に肉体的苦痛を与えるようなもの

  • 放課後に児童を教室に残留させ、児童がトイレに行きたいと訴えたが、一切、室外に出ることを許さない。
  • 別室指導のため、給食の時間を含めて生徒を長く別室に留め置き、一切室外に出ることを許さない。
  • 宿題を忘れた児童に対して、教室の後方で正座で授業を受けるよう言い、児童が苦痛を訴えたが、そのままの姿勢を保持させた。ノートテキスト

日本の体罰史〜昭和時代前に体罰はなかった〜

「新」経世済民新聞によると、
16世紀、鞭で打って懲罰することは滅多に行われないと宣教師が報告しました。
江戸時代の子育ては非常に温和で、子どもを大事にしたようです。
17世紀前半ごろから、日本人は家庭や寺子屋などで体罰をほぼ用いなくなったといいます。
日本の学校で体罰が見られるようになったのは、1930年代から第二次大戦中にかけてのようです。

九州大 施光恒准教授 記事
最近、何かと「体罰」が話題になっていますね。

周囲の学生などに訊くと、「体罰は日本の伝統」だと考えている子が多いようです。マスコミの議論でも、体罰は、「日本型組織運営の伝統」などと断定しているものを見かけました。

これ、間違いです。(`・ω・´)キリッ

体罰は日本の伝統なんかではありません。むしろ日本のしつけや教育は、体罰を使わないことで、欧米人に驚かれることが多かったのです。つまり日本の伝統は、むしろ体罰を用いないところにあるといえるでしょう。

渡辺京二『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー、2005年)では、日本の温和な子育てについて、昔の多くの欧米人の記述が引用されています。

たとえば、戦国時代(16世紀)に日本を訪れたポルトガル出身の宣教師フロイスは次のように記しています。

「われわれの間では普通鞭で打って息子を懲罰する。日本ではそういうことは滅多におこなわれない。ただ言葉によって譴責するだけである」。

江戸時代以降でも同じだったようです。

「注目すべきことに、この国ではどこでも子どもをむち打つことはほとんどない。子どもに対する禁止や不平の言葉は滅多に聞かれないし、家庭でも船(長崎から江戸への船旅)でも子どもを打つ、叩く、殴るといったことはほとんどなかった」(18世紀後半に日本を訪れたスェーデン人ツュンベリ)。

「日本人の性格として、子どもの無邪気な行為に対しては寛大すぎるほど寛大で、手で打つことなどとてもできることではないくらいである」(19世紀前半の日本を訪れたオランダ人フィッセル)。

「私は日本が子どもの天国であることをくりかえさざるを得ない。世界中で日本ほど、子どもが親切に取り扱われ、そして子どものために深い注意が払われる国はない。ニコニコしている所から判断すると、子ども達は朝から晩まで幸福であるらしい」(19世紀後半(明治初期)の日本をみたアメリカ人モース)。

実際、江戸時代の子育ては、非常に温和で、子どもを大事にしたようですね。
( ^^)/(^^) ナデナテ
「溺愛」といっていいほど子どもをかわいがり、その一方で子育てに対する人々の知的関心も庶民にいたるまで高く、数多くの育児書が出版されていました(中江和恵『江戸の子育て』(文春新書、2003年))

日本における体罰の歴史を研究した江森一郎氏によると、江戸時代の始め(17世紀前半)ごろから、日本人は、家庭や学校(寺子屋など)で体罰をほぼ用いなくなったそうです(『体罰の社会史』新曜社、1989年)。

上記で触れた日本を訪れた欧米人の言葉からもわかるように、同時代の欧米や中国ではムチで打つなどの体罰がさかんだったため、体罰の少なさは、日本のしつけや教育の際立った特徴でした。

江森氏は、庶民教育を担った寺子屋では、罰として、居残りさせたり、立たせたりすることは行われていたようですが、体罰は非常に少なかったと推測しています。

藩校など武士の教育機関でも、同様だったようです。武士は誇りを重んじ、体罰は体面を傷つけると考えられたことから、武士の教育でも体罰はあまり用いられなかったというわけです。

江森氏は、「武士のモラルがわかり興味深い話」として次のエピソードを紹介しています。

明治六年に、できたばかりの日本の海軍兵学寮(のちの海軍兵学校)は、英国海軍少佐ドークラスを招聘し「新兵学寮規則」を制定しました。ただ、その際、佐賀藩士出身の校長・中牟田倉之助は、英海軍式の鉄拳制裁を、「武士の伝統と作法を説き、頑として受け付けなかった」そうです(江森氏が参照している元ネタは、鎌田芳朗『海軍兵学校物語』(原書房、1979年))。

つまり江戸時代には、庶民も武士も、子どもへの体罰を強く嫌っていたといえるでしょう。

明治12年(1879年)に教育令が定められるのですが、そこには「凡そ学校に於ては、生徒に体罰を加うべからず」(第46条)と体罰禁止規定が明文化されました。

日本が体罰禁止規定を法文化したのは、欧米の大多数の国々よりむしろ早かったのです。江森氏によれば、「学校体罰法禁の西欧最先進国であるフランスでさえ、(日本の)教育令の規定より8年遅れている」のですから。

日本の学校で体罰が結構みられるようになったのは、1930年代から第二次大戦中にかけてのようです。
近代化が進み、江戸の記憶が薄れてきたころから、まず日本の軍隊が徐々に変質し、鉄拳制裁が行われるようになった。そして、その影響が、学校での軍事教練などを通じて、次第に、1930年あたりから学校教育の現場に伝わった。そのように描けるのかもしれません。

この点について、著名な文化人類学者・梅棹忠夫氏(1920年生まれ)は、あるシンポジウムで、自身の体験にもとづき、「一つの証言」として体罰について次のように述べていました。

「私は、1920年代に幼稚園、小学校教育を受けた、まさに戦前の非民主主義教育を受けた人間ですけれども、私の記憶の中には、たたかれたという記憶は一切ありません。…体罰というのは考えたこともない。全然ありません。…日本はもともと幼児に対する観念が(欧米などと)非常に違うんだ。たたいたりはしない」(梅棹忠夫・栗田靖之編『知と教養の文明学』中央公論社、1991年)。

同じシンポジウムで、日本政治思想史の研究者・渡辺浩氏も次のように述べています。

「ある人の説なのですけれども、体罰というとまず思い出すのが軍隊における私的制裁ですが、それがいつごろ帝国軍隊ではじまったかというと、第一次大戦後ぐらいからだという。明治時代にはやらなかったというのです。

それまでは士族が多かったので、その感覚が残っていた。侍の上位者がその下の侍の顔をなぐるというのはちょっと考えられないというわけです。侍は名誉心が非常に強いですから、人格的な屈辱を与えちゃまずいのですね。そうすると死に物狂いで反抗してくる可能性がある。たとえ主君であっても家来の侍を人格的に侮辱すると、死に物狂いに反抗しうる。

軍隊の私刑は…、…むしろ武士的なものがなくなってから軍隊ではじまったんだという説があるのです。それが1930年代になったら、学校教育へ還流してきたと言えるのかもしれません」(同上書)。

戦後は、どうなんでしょう。

読者の皆様のなかにも、個人的体験から、「結構、先生にたたかれた」という人、あるいは逆に「ほとんどたたかれたりしなかった」という人が、それぞれいらっしゃるんではないかと思います。

一般的には、日本の家庭や学校でのしつけや教育(特に初等教育)は、意外だと思われるかもしれませんが、欧米と比較して、温和で、情緒や人間関係を大切にし、非権威主義的だと言えるようです。

たとえば、アメリカの教育学者キャサリン・C・ルイス氏は、現代日本の学校教育、特に初等教育をとても高く評価しています。

ルイス氏は、日本の親や教師は、アメリカに比べて、頭ごなしに命令したりルールを押し付けたりするなど権威主義的にふるまうことが少なく、子どもの自発性を大切にしている、学業面だけではなく情緒や共感性や意欲など全人格的発達を重視している、と論じています。

また、そういう日本の教育の良さは、江戸時代以来の日本の伝統的な子ども観や教育観の影響が大きいとルイス氏は述べています(土居健郎、キャサリン・ルイス『甘えと教育と日本文化』PHP研究所、2005年。またはLewis, C. C., Educating Hearts and Minds: Reflections on Japanese Preschool and Elementary Education (Cambridge University Press, 1995)。
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えーと、結局、何を言いたいかといえば、体罰は日本の伝統とは言えない、日本のしつけや教育の伝統はまんざら捨てたもんじゃなく、誇るべきものがある、ということです。

経済の議論でよくみられますが、どうも日本の議論というのは、「悪いのは日本の文化や伝統だ! それをとっぱらい、世界に学んで、もっと合理的にしていくべきだ! 良いものは日本の外にある!!」というようなのが多い気がするので、そうとは言えない例も大いにあるぞ、と言いたかったのでした。

世界の体罰への認識と現状

2016年の時点で約50カ国が子どもへの体罰を法的に禁止しています。しかし、まだまだ体罰を教育上有用と考えている国が意外と多いのが実情です。
体罰のある学校とない学校の豪・英・米で比較

なぜ体罰はいけないのか

体罰がいけないのは、体罰と恣意的体罰の区別がつけれらないからだという意見や、人間関係ができていないといけないという意見があります。暴力絶対悪論という考え方もあります。怪我をした場合の責任問題がある(日本はこれ?)という考え方もあります。

私が子どもの頃は悪いことをやったら先生にもゲンコツを食らっていました。体罰を受ける側の子ども(私)は体罰をする相手が悪いとは思わず、「自分が悪いことをしたから仕方ない」と受け入れてしまうでしょう。しかし、体罰(暴力)を良しとすると、自分も悪いことをした者には暴力をするという問題解決策が強化されてしまいます。(アフリカを縦断した時に街中の喧嘩が多いことに本当に悲しかったです。)また、体罰は連鎖します。体罰を肯定すれば、体罰を受けた子は体罰をして教育することが多いでしょう。それを連鎖させることは教育上絶対に良いことではありません。

グアテマラの現状

私は世界を旅する中で様々な学校を見学し、その過程で多くの体罰を伴う授業を見てきたの、グアテマラに来て驚きました。グアテマラでは体罰はほとんど見られません。
低学年は騒がしく、アフリカの学校に行ったら大変なことになるだろうという感じです。しかし、中学年になるにつれてだんだんと落ち着き、教師の言うことを比較的しっかりと聞いています。また、喧嘩がほとんど見られません。グアテマラでは、声を荒げて激昂することは教養がないことと思われていることも影響しているようです。教師も家族も子どもたちを強く追い詰めて指導している様子をほとんど見かけません。皆「大らか」です。(「適当」とも言います。)きちっちりしていない分学力に課題はありますが、その分他の良い面があるように思えます。ピニャータマヤの鞭打ちの刑の文化が残っているのに体罰がなく、落ち着いているのはストレスが少ないという面もあるのではないでしょうか。
体罰について

人を追い詰めてはいけない

「窮鼠猫を噛む」と言う言葉がありますが、この教訓には弱いものでも侮ってはいけないという意味の他に「逃げ場のないところに人を追いつめてはいけない」ということがあります

私は比較的緩い性格なので私の持っていた学級はどちらかと言うと騒がしいです。その点を上司に学習規律がないと指摘され、厳しく指導することとなりました。ルールを守らない子を正論で厳しく指導していくと、それまで気持ちは落ち着いていた子がストレスで爆発してしまうということがありました。

追い詰めると、その心は救いを求めることを諦め、その意識は破壊(自己・他者破壊)に向かい始めます。こちらの言い分が正論であろうと、相手の逃げ道を用意しておくことが大切です。
人の心を追い詰めてはいけない

体罰をなくす上で大事だと思うこと

  • 体罰はいけないという共通認識を持つ
    体罰が許されるという雰囲気がある限り、指導上即効性のある体罰を無くすことは難しいでしょう。体罰をしている人に対して指摘できるよう、地域社会全体で体罰はいけないという共通の認識を持つことがだと思います。
  • 言葉の暴力もしない
    体罰がなくても、子どもを追い詰めるような叱責すら教育には必要ないのではないかと思います。叱ると対人関係の心理的な距離は遠くなってしまいます。
  • 怒りをコントロールする
    人はそれぞれ、「こうあるべきだ」という信念(Core belief)をもっています。それらが否定されたと感じると、不安や悲しさ、不満、悔しさなどの感情が生まれ、怒りへと発展していきます。日本の体罰の多くは怒りに起因すると言われますので、アンガーマネジメントすることが対策となるでしょう。
  • 子どもを大事にし、愛する
    本当に愛する人や物に対して酷い扱いは普通しない筈です。教師は大事な預かりものをしているいるということを意識し、子どもたちを心から愛することが大切だと思います。

体罰について

求められる教師像